あの頃へは還れない


 グリーンのカーテンが、大きな窓からベッドへ清々しい光を導いていた。その繊細なアンティークの白いベッドには、所々赤いバラの彫刻があった。ふわふわのケットの下に残った微かな温もり。朝、既にその主は夢から抜け出してドレッサーの前に座っていた。
 日中とは随分と違う、ぼんやりとした漆黒の瞳が鏡に映り、その背後にはそのブラウンの髪に櫛を通す笑顔の女性が立つ。
「それでは、様はマスタング様が気に入られなかったのですか」
「ええ……なぜ父上は軍の方ばかり私に押し付けるのかしら……」
「ふふ、そんな事をおっしゃっても、お嬢様のことですから。もうその理由に検討くらいついていらっしゃるのでしょう?」
「まぁ、それなりには……」
 今にも欠伸をしそうな程にのんびりとした口調である。それを見てくすくすと笑った女性は櫛を置き、キラキラと光る赤い髪飾りを手にした。しかし彼女の笑った声は、あまりにも人間性に欠けているように聞こえ、義務的な行為でしかないように見える。何処か冷め切ったものだということにが気が付かないはずも無い。
「ねえ……
「何でしょう」
 呼びかけられた当人は、その表情に変化すら見せなかった。いよいよの不信感も募るばかり。と呼ばれた女性は、自分の行為が人の目にどう映るのかなど全く知らないかのように、そのまま動かないでくださいとそっけなく言って、の髪を束ねにかかる。
 それでも、にとって彼女は一人の人間に変わりないのだ。見離すような事ができるはずも無い。しかし思ったことのほとんどを仕方の無いことだと諦めながらも、何処かから隠し通せなかった感情ががじわじわと滲み出てくる。
「敬語はやめてよ……前みたいに、ファーストネームで呼んではくれないの?」
 その時に、ピタリと止まったの手。先ほどまでとは打って変わって動揺しているようにしか見えない彼女の様子に、は悲しげに目を細める。鏡越しにしか見えないの瞳は一瞬の迷いの後、とても無機質に写っていた。
「……私はここの使用人ですから」
「私の前ではそんな事は気にしなくて良いと、前から言っているはずだけど」
「それでも、最低限のけじめは必要です」
 はぐっと髪に重みを感じ、首に力を入れた。はできました、と一言。鏡で確認すると髪の上には光を反射して輝く赤い飾りが綺麗に載っていた。がそうしている間に、はドレッサーの引き出しに、櫛や使用されなかったピンを慣れた手つきで片付け始める。はじっとその姿を目で追うのだが、は目をあわせようともしなかった。彼女は時々こうして髪を束ねたりといろいろ世話を焼いてくれるものの、その冷たい対応にはいささか不満を感じずにはいられなかった。
 使用人だからと一言で片付けられるほど、簡単な関係じゃなかったと思っていたのは私だけだったのだろうかと、人には決して言えない不安と疑念で悩むこともしばしある。この寂しい邸内での生活に、一人でも気の許せる存在が欲しかった。そう、たった一人で良いから……。
「さぁ、朝食の時間です。お嬢様」
 機械的に毎日繰り返される同じ言葉、同じやり取り。にはそれを人形のような笑顔で言ってしまうが信じられず、沈みきった思いを内に秘め、小さな返答をした。『わかりました』と。







+++








「おはよーございます」
「ああ、ハボックか」
「“なんだ”って……なんか俺が来ちゃいけないような感じっすね」
「はは、気にするな」
 へいへいと軽い返事を返し、ハボックは自分のデスクにそれほど大きくも無い自分の荷を下ろす。言われた言葉もたいして気にしていないのだろう。椅子には座らず気兼ねすることもなく煙草に火をつけ、長く煙を吐き出し、その上りゆく白い筋は天井に届かず散っていった。
 いつも見る光景だ。出勤するとまず一本、と言うのがもうこいつの日課になっているらしく、鼻腔をくすぐる臭いはまさに彼のトレードマーク。それを見た中尉はいつも身体に悪いと警告してはいるが、その効果は全くないようであった。そんな彼は思い出したようにごく自然に口を切った。
「そういえば昨日の件、どうなりました?」
「ん?」
 ロイは昨日のうちに課された書類にざっと目を通し、文面に視線を落としたままである。それでもハボックは続けた。
「見合いの件ですよ、行くのあんなに嫌がってたじゃないですか」
「ああ……そうだったな」
 ロイの口から出てくる素っ気の無い返事は何ともやりづらいと、ハボックは一度煙草に口をつけて二言目を待つも、その先に続く言葉は無し。仕方なく自分の好奇の向くまま口を動かした。
「で、実際会ってどうだったんすか?」
「どうって……。素敵なお嬢さんだったが」
「また断ってきたんすか」
 それを聞くと、ロイは書類から顔をあげて柔らかな目つきで部屋の隅を見つめ、ハボックは話の核心に迫った事を知った。
「……いや」
 たった一言。しかし思いもかけなかった返答。ハボックは椅子から転げ落ちそうになりながら、始めてみる上司の表情を必死に読み取ろうと試みる。しかし、わからない。
 それは、と何か言いかけたハボックを残して話は強制終了。丁度その時、ホークアイが執務室に入って来たのである。
 良い具合に話にけりがついた安心感を感じて、ロイは再び活字に目を落とした。とても直感的ではあるが、彼女との事を明るみに出してはいけないような気がしたからである。まだ話して良い時期ではない。はっきりとした形で、婚約の話が纏まっているわけでもないのだから。抱いても無意味な一種の独占欲もその理由に含まれているかもしれない。
 今まで、自分に対して好意を持たずして近づく女性はほぼ皆無だった。彼女に近づくのがこちら側だったとしても、その冷たい心に変化は皆無であるように見えた。結局昨日もあの後に何か大きな進展があったわけでもない。
 時間だからと追い出されるようにしてその邸宅を去った。そして振られたも同然なことを言われて、全く傷心しなかったわけでもないが、彼女の心の底に住みつく微かに感じた純粋さが気になって仕方ない。言っていた事の一つ一つは――もちろん彼女自身の長年蓄積してきた憎しみに酷似したものが含まれていることはあっても――どれも素直な真実であるようなインスピレーション。その片鱗を明確な形としてとらえたい。
「――仕事だ」
 普段聞くことが無いようなロイの言葉に驚いた部下達は、微かに笑って適当な返事をした。
 何とかして頭を切り替えよう。朝、しかも職務前からこんな風ではまた中尉に何を言われるか分かったものではない。発した言葉は自分への啓発であった。仕事の処理が遅れてしまっては、の家を訪れる事ができなくなってしまうのだ。
 しかし彼女の顔が、声が、あの凛とした眼差しが、まるでつい先ほど見たばかりのように思い出されるのは不可抗力。
 今日の勤務を終えたら、あと何時間と経ったころにはきっと昨日と同じ場所に座っていられるはず。
 その連日の訪問は自分の勝手な意思ではなく、頭首である氏からの頼みでもあった。
「長くお話されていたのは君くらいのものだ。娘を気に入ったのなら、明日でもまた来るといい」
 ロイの行動は、結局その言葉に甘えただけともとれる。彼女からの誘いでなかったことに、少し後ろめたい部分が無いわけでもない。
 この出会いは仕組まれている。互いの感情は全く無視された政略的なもの。心底にはそれがあることを知りつつも、どうしても再会を願ってしまう。こうやって毎晩通いつめていれば、そのうち少しでもこちらに目を向けてくれるかもしれない、そんなとても淡い望みが何処かに生まれていた。
 今の時点で、好意を持ってくれという欲深いことは言わない。いまだ信用すらされていない自分が、そんな事を思うなんてあまりにも愚かなことだ。彼女の信用を得る事だけでもひどく難しいのに、そんな全く無駄なことを思いはしない。
 今欲しいのはそう、好意ではない。心中を覗くに必要なのは彼女の信頼、それも心からのそれであった。









+++









「お嬢様はとても神経質になっていると思いますので、その辺りはご理解ください」
「神経質?」
 肯定した屋敷の使用人は、ロイを屋敷の奥へと招きいれ、贅を凝らした廊下を進んでいく。その後姿、歩く度にきっちりと一つに結い上げられた髪が揺れるが、声色は硬い。洒落たライトがぼんやりと深紅の絨毯を照らし、なかなか落ち着きのある雰囲気が漂っていた。
「あの部屋におられる時には、いつも人払いまでいたします。お嬢様は余程人の気配がお嫌いなのでしょうね」
「……そんなに張り詰めた部屋に案内されるのか?」
「そうなりますが、大丈夫でしょう。旦那様のご意向もあります、本日のマスタング様のご来訪もご存知のはずですから」
 廊下から続く小さな階段を下り、丁度突き当たりのドアの前で彼女は止まった。ロイもそれに従う。そのドアはとても質素なものであった。ここに来るまでに通りすぎたどの部屋のドアも綺麗に彫刻が施され、独特の艶と重厚間を感じたのにも関わらず、この部屋のものは後で付け加えたという感覚が拭いきれないほどこの屋敷には不釣合い。全く飾り立てる要素が無いのである。それはこの部屋に全く価値の無いものだというレッテルを貼っているようにも見受けられた。
 また、さすがに人払いをしてあるというだけあって人の気配どころか物音一つ耳に届かない。それは不気味なほどの静寂で微かな不安をも覚える。
 しかし今、ロイにある大きな不安の種は目の前にする部屋の中にいる人だ。人払いまでしている人を訪れるなんて、神経を逆撫でる様なことになりはしないだろうか。自分が彼女にとって招かれざる客であることは、昨日の会話や彼女の態度からも明白である。これから始まる彼女との対話に、どうして浮かれ気分ばかりでいられようか。 
「ところでこの部屋は……」
「お嬢様がご自身のアトリエとしてお使いになっているお部屋です」
 とても奥まっている薄暗い廊下と人気も音も無い場所……それがひどく彼女らしく思えたのは、彼女の本質を本能的に知っていたからだろうか。
 女性は小さな動作でドアを叩き、乾いた音を響かせた。しばらく待つが中からの応答は無い。
「どうぞ、お入りください」
 あまりに冷静な目の前の人の言葉に目を見開く。
「しかし」
「集中している時はいつもこのようですからご心配には及びません」
「しかし礼儀として」
「お返事をお望みでしたら、もう何時間と待つことになると思いますが」
 しばし沈黙の後、ロイが一歩進み出るとその女性は白い手をドアノブに掛けてゆっくりとまわす。その間もロイの心臓は刻々とその速さを高めていった。
「あの……」
 ドアが開こうとした瞬間にロイが声を発したが、女性は開いている左手の人差し指を立て、口に押し当てる。“うるさくはしないように”その動作で伝えられたメッセージには、やはり苦笑する他無い。どうあっても、この家にいる限り彼女の優位が確定させられているのであった。
 ドアを開けた女性に招かれ部屋に入る。すくむ様な妙な感覚を覚えるも、それをアトリエの中の人物に悟られることが無いようにゆっくり敷居を跨いだのである。
 後方で、ぱたんと微かに響くドアの閉まる音。
 ロイは思わず、その室内を見回していた。アトリエと言うからには、明るい部屋、それも創作の妨げになるものが何一つ無いようなとても居心地の良い空間を思い描いていた。しかし招かれた部屋は明らかに違う。想像していたものはいとも簡単に覆され、自分のいる場所が全く信じられなかったのである。
 ただ広い部屋の中に広がる柔らかで独特の臭い。もとは白かったのだろう、今は灰色の無機質な壁と、たった一つ、それも部屋の天井近くにある細い光をもたらす窓。大きな屋敷からは想像もできないようなシンプルな電灯からは、明るすぎることのない光とそれにぼんやりと浮かび上がる部屋の片隅のカンバス。それら布張りの板の大きさは様々で、何十枚という数のものがどれも無造作に重なって壁に立てかけてある。
 そしてその部屋の中央に、髪を纏め上げた人の後姿。すっと椅子に座って、黙々とその手を動かしている。傍らには小さく一見粗末にも見える木製の台が有り、その上には絵の具の銀のチューブがごちゃごちゃと入った箱と、おそらくカンバスの絵の下絵が書かれている開かれたスケッチブック。そして彼女の目の前には彼女の身長くらいありそうな、大きな絵。それがまた一色、また一筆と彼女の手によって塗り代わり、くるくると違う表情を見せていく。彼女のその筆先や揺れる手先が、とても優雅に自然な動作で動く。
 圧巻であった。何一つ無駄な動きが無いようにさえ見え、その生み出す芸術が普段の自分とかけ離れた世界のものと知りながら、美しいと感じてしまうのだ。一種恐れにも近い感覚を、自分は少し前に感じたことがある。それが果たしていつのものだったか……。
「また、いらっしゃったのね……」
 振り向くことはなかったが、澄み切った声はまさに本人のもの。独り言のような静かな呟きであった。
「訪ねてきてはいけなかったでしょうか」
「ええ……そうね」
 彼女はゆっくりと筆を下ろし、左手に持ったパレットと共にそれを台の上に置いた。立ち上がってスカートを払うと、絵の具避けに付けていた白のエプロンを外し振り返る。今日始めて顔を合わせた彼女はとても不貞腐れた表情を浮かべ、ロイの姿を見たとたんにその瞳は冷たい光を宿してその人物を睨む。
「つれないですね、そんな顔なさらなくても」
「元々こんな顔です」
「そうかな? 初めて会ったときに、そんな顔はなさっていなかったと思うが」
「いちいちうるさい方ね」
 ふんわりと広がった黒のワンピースの裾を揺らしながら、ロイの方へ向かって歩く。しかしその姿に、ロイはどこか釈然としないものを覚えた。
 は全くロイなどは眼中に無いという様子でその脇を通り過ぎ、先程ロイをここまで連れて来たあの女性の前で止まると二言三言交わす。そしてそのままドアに手をかけてロイを振り返った。
「話があるのなら、別室に行きますが」
「わざわざそんな事」
 この部屋ではいけないのかと尋ねれば、彼女は首を横に振る。どうあっても、この部屋で話はしたくないという頑なな意志をどこまでも突き通したいらしい。
「ではこのままお帰りになって?」
 そう容易くまともな話ができると言うわけではない、と言うことか。ロイはその言葉に従い部屋を出るしかなかった。薄暗いその部屋の独特の雰囲気が嫌いにではなかったから、なんだか名残惜しい気を残して再びドアのしまる音を聞いた。


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