形だけの言葉なんて 「それで、今日はどんなご用件かしら」 相変わらず、彼女の開いた口から聞こえるのは皮肉っぽい口調と言葉の羅列。そこに彼女の魅力を感じる自分が微かに微笑む。 通された部屋は昨日の部屋と同じ所。薄緑のカーテンと純白のソファ。居て心地よいインテリアの数々に囲まれた空間に今は二人きり。向かい合って腰を下ろした、その形まで同じである。 「貴方と話をするために、では理由になりませんか」 「馬鹿馬鹿しい。私は貴方と話すことは何も無いと思ったけれど」 「私にはあるのですよ、ミス・」 彼女は眉根を寄せる。膝の上に組むようにしておかれた細い指。次にロイが口を開くのと同時に、背後のドアが開く音。そして“失礼します”と言う声と共に、先程の使用人が手に盆を載せて現れた。顔を伏せがちにゆっくりと歩み寄って、テーブルの上にてきぱきと紅茶一式を置いていく。 ふと、向かいに座る強気な彼女の顔を見たが、それは一瞬自分の目を疑う結果を招いた。とても寂しそうに、使用人の動く様を見ていたのである。それは同情だとかではない、とてもやるせない様に歪んだ悔しそうな表情。強い光の瞳は無機質に女性の手の動きを追っていた。 「」 盆を脇に持ち、部屋を後にしようとした女性を彼女は引き止める。 「何かお持ちするものがございますか」 「いえ……得には無いのだけれど」 使用人の方は全く動じていない様子であるが、は何か言いたげな声色である。 「ではこれで失礼します」 それに気付いていないのか、冷たく機械的な言葉を残してと呼ばれた女性はその場を後にする。まるで置いていかれた子どもの様に、目の前の彼女は諦めるような溜め息を吐き出した。 「親しい方、なのですか」 「……貴方には関係ないことよ」 彼女はイライラした様子でティーカップに手を伸ばす。 「それで」 一口飲み終わった彼女は、自分からロイと目を合わせようとした。 「貴方のお話とやらは何なのかしら」 思いも寄らない彼女の彼女らしからぬ行動が心中の動揺を示しているようだと思う。という女性との関係もまた、この作られた出会いに勝るほどの複雑な事情を抱えたものだという事を直感的に感じた。しかしこの場でそれを聞くのも野暮と言うもの。聞く時期は決して今では無いと、ロイは事前に考えていた事を口にした。 「貴方が何故、初めて会った日に街に居たのかを伺っても?」 「余りよろしくない問いね」 「おっと、これは失礼。では貴方をを助けた者として、街にいた理由を聞かせてください」 言葉のニュアンスは許可から軽い強制へ。彼女はまるでそういわれる事を知っていたかのように、穏やかに答えた。 「……私だってここの住人よ、街にいる事がそんなに悪いことかしら」 「そうではありません。昨日の父上の話では、あなたは外出の許可がほとんど無いとか」 「ああ……あなたは聞いたんでしたね。でも私からその事を聞きだそうとしても無駄ですよ? 私には話す気は無いんですから」 「では、当てて見せましょうか」 口端を得意げに上げ、それに対する彼女の様子はまるで面白くないといったようにも、当ててみなさいと言っている風にも見える。ロイは続けた。 「街になかなか出してもらえない、そしてあなたの行動からも容易く考えに至ります……あなたがこの家を抜け出してきたかも知れないことぐらい、ね」 彼女は一瞬驚きの表情、しかしすぐにそれは消え、続いて口端を微かに上げた。その目には、何か面白いものを見ているような雰囲気が満ちる。 その瞬間が来るのを待っていた。それが彼女の話す内容に深みが生じるのがほぼ同時ということに、一体散っていった何人の恋人候補が気づいたというのだろう。権力ではなく、彼女自身を内面から見つめようとしていた人がどれだけ……。 「さすがは国軍大佐ね」 「お褒めにあずかり光栄です」 「そこまで直接的に物事をおっしゃって、損ばかりなのでは?」 「部下が優秀なのでね、そこには全く苦労いたしませんよ」 「あら、それじゃあ部下の方がかわいそう」 「それでも皆、信用に足る人ばかりですから」 「そう?」 「それで、街にいた理由は一体……」 その本質に迫っる言葉を言いかけたその時、コンコンと規則正しいノックの音。向かいに座るは、微笑んで“失礼”と一言いって、すっと立つと、ゆっくりとその部屋から出て行ってしまった。彼女が歩くたびに散らせた、香りだけを残して。 彼女が出て行った、ドアの閉まる音と同じくして、椅子の背もたれにぐったりと身を沈めた。好きでここにいるのに、こんなにも疲れていることは驚きだ。なかなか彼女は自分のことを話さないことに苛立っていたのかもしれないし、自分が何か言うたび彼女の言葉を聞くたびにいつもいつも全てに気を配り神経を尖らせて、致命的な一言を与えられないよう話すことに、まだ慣れが足りないのかもしれなかった。会って間もない人に心を開いて話せというのも、到底無理な話である。世の中一般からしてもそうだと言うのに、まして自分の内を全く明かそうとしない秘密主義の彼女の性格からすればそれは一層難しいことであろう。昨日まで、いや、つい先ほどまで見せていた父が選んだ婚約者候補に違いない、自分への蔑視はその証拠。妙な胸騒ぎを覚えたのはその時であった。 再び、ドアの開く音。それと共に、室内に流れ込む鼻をくすぐる甘い香りに姿勢を正した。 彼女は再び向かいのソファに腰をうずめ、ロイに対峙すると手を組む。 「失礼しました」 「あなたは大変お忙しい方だ」 「……そうかしら?」 得意げな微笑、それが何を表しているのかロイに分かるはずも無い。 「話を戻しましょう、あなたが街にいた理由を教えていただきたい」 部屋を出て行くときのような微笑が消え、一瞬にしてその表情は真剣みを帯びた。一息つくと、彼女は背もたれにゆっくりと寄りかかってぼんやりと視線を空に漂わす。黒の服に、彼女の白い喉元がくっきりと対比され、滑らかな曲線がちくりと胸を刺した。 「私の夢は、こんな家にずっと閉じ込められていることじゃないの」 「ええ」 「都会の騒がしさが全く無い様な、田舎暮らしで構わない。何も豪華なものなんて望んではいないの」 「…………」 なんとなく分かっていた気もする。彼女と初めてあったあの日、品のいいお嬢さんだと思った。しかしどこか影がある、とも。その原因はきっと彼女が育った環境にあるのだ。いつも誰かの監視が行き届き、息も詰まりそうになるこの家の中、ずっと彼女が切望していた外の世界との接触は、主に認められてはいなかった。 私は、君の力になりたいと思うだけ。ほんの少し、君が頼れる存在になる事ができたらそれ以上多くは望まないと思う。それは今、自分が置かれている立場での考えに他ならない。それも分かっている。しかし “力になりたい”と言うのはいつまでも変わらない思いである事を、確信している自分が居る。 「ごめんなさい」 「え?」 「あなたと結ばれても私の夢は一生叶わないわ。あなたがまだ上に行くとおっしゃるならば、なおさらね」 「……おっしゃっている事の本意はなんですか」 「私に近づくなという、警告の一種かしら」 「街にいた理由をどうあっても教えたくはない、と?」 「まぁ、そういうことね」 得意げな微笑の裏に、やはり何かがあるようにしか思えなかった。疑っていたわけじゃない。ただ余りにも、彼女のひとに対する避け方が尋常ではないと思ったから。長い息が自然にこぼれた。 「あなたは、ご自分が不利な立場にいることをお忘れのようだ」 「分かっているつもりよ、国軍大佐サマ? 父上に私が密かに家を出ていることを話すというのでしょう」 「お分かりならば、一体」 「それだけ嫌ということよ。あなたに話すことは無いの。マスタングさん、私、言いましたよね。お互いに望まないことはやめましょう、と」 「それはあくまでお互いに、でしょう?」 にやりと不敵な笑みの私に、彼女は怪訝な目を向けた。 「……何が言いたいの」 「ではもし、私が貴方とのお付き合いをしたいと考えていたらどうですか?“お互いに望んでいないこと”ではなくなるはずだ」 「それはそうね。でも付き合うことになるにしても、よ。それはお互いに好意が無くては、ただの叶わぬ戯言だわ。私にはその気が全く無いのだから、無意味よ」 「でしたら、変えるまでです」 「え?」 「貴方が私に恋をするよう仕向けるまでですよ、嬢」 彼女が、予想もしなかった私の言葉に目を点にしてしばらくが経った。その間、自分でも大それた事を言ったものだと思いはしたが、全く後悔はしていなかった。それが自分の本心であることは明白で、疑いようも無い事実だったからである。たとえそれが彼女の心に響かなかったとしても、自分でできることを宣言する他にすべきことは無かった。しかし、驚いたのはこの後である。 「以外に、子供っぽい方なのね」 「…………」 「いいわ、やって御覧なさいよ。私が貴方に恋をするか、でしたね。ふふ……何をなさるおつもりかしら?」 こんなにもあっさりと言ってしまえば“流される”形で事が運ぶとは夢にも思わず、今度ばかりは自分が唖然としてしまった。 「私の前に跪こうとでも言うのかしら」 「あなたはそんな事をしても、ご自身の考えを容易く変える人でない」 「知った風なことを」 「あなたの前に跪くだけで、伴侶となることを許すのなら それくらいの人はたくさんいたでしょう?」 「そうね、みんな父の権力目当てばかりだったから」 「私はそうはしない。ここからあなたを出して差し上げることもできるでしょう」 その時の瞳の輝きは真剣そのもの。彼女が自身の束縛を憎んでいる何よりもの証拠だった。 「どうやって?」 「一緒に出かけるという口実でも作れば、父上も外出許可を下さるはずだ」 「甘いわね」 「え?」 「父は、あなたが思っているほど普通ではないの。娘を一歩も外に出さず、決して世の俗物に触れないようにと育ててきた人よ? そう簡単に、外の世界の仲間入りは許さないわ」 ましてや、恨みをかってしまう軍人のあなたと一緒なんてと、は冷ややかに付け加えた。 「何とかなりますよ」 「無理でしょうね」 「初めから確かなことは」 「あるのよ、残念なことに」 「しかしそれでは」 「いいの!」 彼女は初めて聞くような、ヒステリックな声を上げ、立ち上がると怒りに染まった瞳でこちらを見下ろした。 「どれもこれも、あなたはお遊びのようなことばかりおっしゃるわ。家の事情なんて何も知らない人が土足で足を踏み入れることではないことも分かりませんか? 父上には父上の、きちんとした考えというものがあります。それに、私に取り入ってまで権力が欲しいというなら実力で勝ちあがってはいかが?」 「言われなくとも、そのつもりです。私はそんな人ではないと、言いましたが?」 「でしたら、私に近づく理由なんて何もない。貴方のように恵まれたステイタスをお持ちの方を相手にされる方なんて山のようにいるでしょう?」 「……それはいますよ、いくらでも。しかし私は――」 今更、一目惚れしたなんて言いはしない。酷く安っぽい響きだ、自分の抱える大き過ぎるこの思いを表すには。けれど何故そこまで私を遠ざけようとしているのか、理解ができない。そして彼女の言い方に、自分も我慢がならなかった。自分から遠ざけるために言っている言葉だとわかってはいても、理解と感情はものが違う。思わず立ち上がって、テーブル一つ向こうの彼女の瞳に訴えた。 「理由ならあるんです」 「……なんだというの」 今にも崩れそうな彼女の細い肩の震えに、心の痛みは隠せない。 「まず、言っておきたい。 私はあなたの父上の権力に目がくらんで、ここに来ているのではないことを」 「…………」 「言ったでしょう、私があなたを変えるまでだと」 「……よく、分からないわ」 「私は、あなたが家の人でなくてもきっとこうしているはずだ」 「そんな、根拠もないことを」 「本当だ」 「嘘よ」 「嘘ではない」 「やめて」 「では信じるというのか?」 「いいえ、信じられないわ。だって、そんな事をおっしゃられる理由が」 その後の彼女の言葉は大きな時計の音にかき消されてしまった。小さく小刻みに動かされる唇からは、何も読み取ることができなかった。鐘が鳴り終える少し前に、彼女は口を止め、なり終えるとすぐに小さく呟いた。 「……時間だわ」 「まだ話は」 「時間よ、出口は貴方の後ろのドア。父がこの時間になったらお帰りになるようにと。だから……お帰りになって」 彼女の有無を言わさぬ口調に、もうこうなってしまってはと、やるせない気持ちを押さえつけて、言われたとおりに帰り支度を始めた。すぐにドアから乾いたノックの音がして、一人の執事が顔をのぞかす。そろそろお時間です、と告げに来たのだった。 「すぐに」と返事したのは自分ではない。は本当に私を嫌っているらしかった。少なくとも、こういった人を突き放すような行動の数々を見る限りでは。しかし冷たい言葉とは裏腹な表情や仕草や瞳の色が時々見え隠れする事がある気がして、離れようにも離れられない。それが自惚れかも知れない事を知りながら、その微かな望みに賭けたいと思うのだ。 頭を引っ込めた執事を見てから、自分もドアへと向かった。その時に、どうしてもの脇を通ることは避けられず、気まずいと思いながらもさも余裕ありげな声で呟いた。最後に彼女が言いかけた、言葉を汲んで……。 「あなたの魅力に落ちてしまったから…… だから私はここにいるのです」 すれ違いざま、耳元で囁かれた彼女は目を見開いて口を開きかけた。しかしそれを聞かないうち、私は開いたドアに身体を滑り込ませ彼女の姿を部屋に置き去りにした。残っているのは、首につけられていたらしいコロンの香りとくっきりと浮かんだ彼女の驚いたような顔の残像。我ながら、よくもあんな台詞がいえたものだと自嘲しながらも、決して悪い気はしない。 ドアが再び開かれないことを確認すると先ほどから様子をうかがっていた執事になんだかわけの分からない礼を言って、車のキィを受け取った。 一歩外に出ると、暖かかった屋内とは違う、寒々としたものが脳内に流れ込んで心地よかった。車に乗り込み、『おやすみ』と、屋敷の外から思いをはせてもそれが彼女に届いくようなことは決して無い。結局、彼女が街にいた理由は聞けずじまい。しかし、自分の大きな仕事が一つ終わった気がしてなんだか満たされた様な気持ちである。 すこし晴れ間を見せた心の中にぽっかりと渦巻く暗雲もしばらくの間はおとなしくしてくれていた。次に会う日を思いながら、その時には何を尋ねようかと思いを馳せ、その日は帰路につく。 冷たい風が吹きつける外界を車中の温い空気の中から見れば、自分が出て来たばかりの大きな屋敷はその地での権威を誇示しているようにしか見えなかった。 この飾り立てられた籠の鍵は一体どこに隠れているのか。そのときはまだ、美しい鳥が清澄な声で歌う時、自分が側にいられるよう願う事しかできなかった。 |