僕達を不自由にさせたもの


 雨が降りしきる世界の中で際立つ三つの影。顔をそむけるように立つ長髪の女と、黒いコートの下に青の軍服を着る男。残る一人は傘を手に持って、互いに対峙したのは5秒にも満たない。
 重々しく湿った空気は吸い込まれ、微量の抵抗も無く肺に馴染んでいった。
「軍人、ですか」
 傘の下で男が言う。その姿は彼女の知り合いと言うには余りに信じられない身なりだった。恐らく公式の友人ではないのだろう、彼女が街に出てであった友人か、あるいは……。
 はその間も全く動く素振りを見せず、雨に打たれて路面を見つめるばかり。
 互いに互いを睨みつけている男、それに板ばさみになるように女性がひとり立っている。
 雨はまた一段と勢いを増して、この3人に降りそそぐ。青の服は重くなり、裾からは雨に紛れて雫が落ちた。
「東方司令部のロイ・マスタングだ」
 睨みつける男に負けじと言うが、男は半ば独り言のように言う。「……誰だって構わない」と。
「あんたもどうせ、の親父さんの差し金だろう?」
 “差し金”という言葉にの背が揺れた。しかし、何故見ず知らずの人からそんな風に言われる理由がある?
「差し金とは……」
 この男の行っている事が飲み込めない。
 ふとを見ると、小刻みに揺れながら拳を硬く握り締めて立っていた。その不安定さに胸が痛み、一抹の不安を覚える。
?」
「……だから、言っているでしょう? 私の過去に、これ以上踏み込まないで……」
 過去? 彼女が持つのはここ数年の記憶だけだろう? 失ってから創りだして来た彼女の記憶にも、触れるなと言うのか?
 どういうことだと尋ねようとしたその途端、雨に惹かれるスカートを翻して、はふわりと駆け出していた。刹那、その男の元へ行くのだと思った。その人に飛び込む事が、彼女の本当に望む幸せのかたちだと、どこか確信めいたものを感じていたから。
 しかしはその男の脇をすっと抜けていく。唖然とする自分をよそに、男はまるでその事が分かっていたように動揺を微塵も見せることなく彼女の姿を見送った。
「追わなくていいのか?」自分の口をついて出た言葉はそれだ。
 彼女を追うのは自分の役目では無いということが、何よりも悲しくやるせない。しかし彼女の事を考えれば、時に身を引くのも当然のことである気がした。
「追うさ、すぐに追いつける。ただ……」得意げに、そして人を見下したように嫌味っぽく上げられたその口端。
「あんたに、の相手がつとまるわけが無い。それだけ、言いたかった」
 そして彼も、の消えていった街の中へと消えていった。徐々に小さくなる小さな傘が、角を曲がって見えなくなるまで見とどけると、ひとりこの場にいる自分が情けなかった。
 何故追うことが出来なかったのだろう、何故あの男を見送らねばならなかった? 全部、その全ては自分のせいだというのに、自分を責めても責めても一向に気分は晴れない。
 奥歯を噛みしめて、静かに車へ入った。雨で重くなった軍服とコートがとても鬱陶しかったが、何よりもわずらわしかったのは、自分自身の気持ちだった。
 空が抱える黒々とした雲が降らす雨は、まだまだ降り止む様子を見せずにいる。















 * * *


















「大佐、今日は午後から会議の予定がありますのでお忘れの無いように」
「ああ」
 何の変哲も無い、いつも通りの職務。しかしそれはまるで地獄のような日々でもあった。
 ここ一週間、と会っていない。会うことが出来ないのである。それも自分の仕事が忙しいわけではない。
 毎日のノルマをこなし、ほぼ定時に上がる事ができるとすぐに脇目もふらずにの家へと車を走らせてはいるのだが、肝心の彼女が部屋を出ない。
「お嬢様は具合が悪くお会いする事ができないと言うことです」
 顔に張り付いた能面のような表情で、淡々と告げられるのはいつも玄関先でのこと。それも決まって、いつかのアトリエへ案内してくれたと言う女性だった。
 初めの数日こそ、あの雨に当たったせいで風邪でも引いただろうかと心配していたのだが、見舞いを申し出ても全く相手にしてくれない。何よりもう随分と日が経つのに体の調子がよくならないとはおかしいことだ。
 ここまで来ると、もう彼女が会いたくないと言い張っているとしか考えられない。よくよく考えてみれば、使用人がわざわざ客を帰すのだから他に理由は無いだろう。
 そこまでして彼女は自分に近づいて欲しくないという彼女には、まだ知るべき事が計り知れないほどあるのは確かだ。そうして考えてすぐに浮かぶのは、雨の日の男だ。名前も名乗らず彼女を追っていった真っ黒い傘は今もはっきりと脳裏に焼きついてはなれない。 
「大佐」
 呼ばれたことにはっとして我に返ると、デスクの前には厳しい顔をしたホークアイ中尉が、手にした書類の束を突きつけて立っていた。
「午後の会議にはまだ時間が有りますので、こちらの書類を」
「……わかった」
 無理やり夢現から気持ちを引き戻して、中尉から渡された束もずいぶんと分厚く、気は滅入るばかりだ。
「あまり気を抜きすぎては職務に支障が出ますよ」
「分かっている」
 中尉も人がいいのか悪いのか。過酷な職場でさりげなく見せる優しさも、彼女の長所。しかし気を抜いていると言うのとは少々違う。まあ、彼女の気を抜くことの定義が仕事以外の事を考えること全てを指すのなら、そういうことにはなるが。
「精々気をつけるとしよう」
 言い終えた直後に部屋のドアが勢い良く開かれ、その大きな音に室内の視線はそちらに集まった。
「ハボック少尉、もう少し静かに」
「大佐!」
 中尉のお咎めも無視してずかずかとデスクに近づくと、ハボックは数枚の紙をそこに叩きつける。その顔は驚きと困惑とが入り混じった複雑な表情で、一体どんな緊急の話なのだろうかと不安がよぎった。
 しばらく、ハボックの手の下にある紙とその顔を上下していた視線。
「これ……知ってたんすか?」
 高揚した気持ちがうかがえるが、落ち着きを取り繕っている様な話し方だ。
「何のことだ?」
「これですよ、これ!」
 焦燥が爆発したのだろう、すごい勢いで目の前に突きつけられた紙を渋々受け取って文面を見た瞬間、我が目を疑った。
「これ、は……?」
 ずいぶんと年季の入った、古びた紙である。紙の端は所々かけていて、日にこそ焼けてはいないが文字からもその古さがうかがえる、そんな古い軍事名簿。
 その紙の一枚目、一番上の欄にあった名――『・デンティーニ』
「これ、この間ここに来た方じゃないですか?」
 その人はファミリーネームを“”と名乗ってたみたいっすけど、とハボックは言いながらモノクロームの写真を指差す。
「……これを、一体どこで見つけたんだ」
 彼女だと言い切ることも、否定することも出来ない。どちらの可能性もゼロでも百でもないからだ。頭の中は一気に覚醒した。
「資料室ですよ、探し物ついでにちょっと整理を手伝っていたら出てきたんです。何か面影がある気がしません?」
「…………」
 名前の脇にある顔は、緊張の面持ちでまっすぐに前を見つめるショートヘアの女性。白黒であるために髪色までは分からないものの、特に印象的なあの力強い眼差しはなんとなくと同じような印象が無いわけではない。
 背凭れに寄りかかりながらも、視線を資料から外す事ができずにいる。
「どう思う、中尉」
「……どういうことでしょうか」
「この名簿、丁度イシュバール戦最中のものだ」
「ここに名簿がある以上この方が軍にいたことに間違いは無いと思いますが、それが家の令嬢と同一人物とは言い切れないかと」
「“・デンティーニ”……」
 どこかで聞いたことがある気がするのに、はっきりとは頭に浮かんでは来ない。ぼんやりと記憶の輪郭をなぞるだけだ。具体が見えてこない限り手の尽くしようが無い。
「ひとまず」
 ホークアイは長い息を吐き出した。
「ここは仕事場である事をお忘れなく」















 * * *












 仕事を終え、先まで続いていた意味の無いような会議の内容がぐるぐると頭を回る中、車に乗り込む。鞄を空の助手席に放り込んでふとその場を見つめた。何も無い、ただ鞄がくたびれたようにあるだけの空っぽの席。
 一瞬にして目の前に現れたのは寂しげな横顔のフラッシュバック。過ぎ行く雨を背景にうつろな瞳の色がその人の印象には似合わず、その事の重大さを理解するのは容易だったが行動に移すには複雑すぎた。
 そこで、ピンと思い出した――彼女には、記憶がない。
 確か、彼女は8年前より前の記憶を失っていると言っていた。それは彼女が軍にいたかもしれない事を考えれば、それはすぐに思いついた。
 そう、その頃は、丁度イシュバール戦が終戦間近の時期ではなかったか?
 考えてみれば、なんて簡単に仕掛けられた謎だっただろう。憶測の域を脱しないとはいえ、これらの情報から自分が導き出せる可能性はたった一つだ。
 動き出した車は一時の躊躇いの後、住宅街の向こうの小高い丘に向きを変えた。
 軍の名簿にある名前が彼女だとすれば、彼女は間違いなく軍にいたことになる。思うに、ほぼ間違いないだろう。人違いにしてはあまりに説明がつきすぎる。
 イシュバールの地で彼女に何かが起こって記憶を失う……ありえない話ではない。あの戦場で精神を病む人など五万と居たのだ、彼女がそうならない可能性が無いといいきれるわけがない。過去一切の記憶を失ってしまえば、軍ももう彼女を使うことは出来ないだろう。軍が手離したのか、あるいは彼女から離れたのかは知れないが、そんな状況に陥れば軍との関係を絶つことも当然と言えば当然だ。しかし、やはり何かが引っかかる。
 例えばそのファミリーネーム。なぜあの書類に“・デンティーニ”とあったのか、その可能性として考えられることは誰かとの婚姻関係――しかし彼女の様子からしてそうは思えない。記憶を失ったとしても、彼女と夫である人がその傍らにいるのが当然なのだから、そもそも自分に見合いの話などまわってくるはずも無い。
 とすると、考えられることはあと一つ。
 思案する車の目の前に、あの大きな屋敷が闇の中にぼうっと浮かび上がる。徐々に大きくなるその陰に向かってゆっくりと速度を落とした。しかし、彼女とはここのところ会う事が叶ってはいない。
 今日は会いたい、今日こそは彼女に会って話がしたい。その思いは強まるばかりだ。いつものような取り留めの無い話なんかとわけが違う、これは彼女の過去に関わる重要な話……。そこでふっと思う。彼女の執拗な謝絶は、まるで過去から逃げているようではないのか、と。これ以上詮索をするなと暗に言っているのだろうかと。 
「そんな事、あるわけが無い……」
 車から降り、ずいぶんと細くなった月を見上げて息を吐いた。
 自分の失ったものを、取り戻したいと思うのが人の性。しかし、それを彼女が取り戻したく無いのだといえば、それはそのまま彼女の幸せだ。
 鈍い金属の擦れる音に、重々しい門が開かれたことに気付いてゆっくりと振り向いた。いつもなら、気さくな初老の男が『またですか』等と冗談をいいながら出迎えてくれるのだが、この日、挨拶をしようとした所にいたのはいつもの門番の男ではなかった。
「こんばんは、マスタング様」
 彼女の親友と聞くは静かにそういって、心を殺したような顔で出迎えた。
 私はその時点で“今日もか”と小さな失望を感じつつ、“もしや”と言う僅かな希望を胸にしまい込む。
「ああ……今日は嬢に会えるだろうか」
「申し訳ございません、本日もお嬢様はお体の調子が悪く誰ともお会いになりたくないと」
「まだ、よくなりませんか」
「はい、そのようでございます」
 いつもいつも、この調子だった。連日のこの会話も恒例行事のようになっている。
「それでは一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
 薄暗い虚空の一点を見つめていた使いの彼女が、はたと視線を上げた。いつもはそのまま帰って行く人がなぜ今日に限っておかしなことを言い出すのかと思ったのだろう。私の心の内を見透かそうとするかのように、その目を細めて冷たい声色で何でしょう、と一言返した。
 マニュアルに無い事が出来ないなど有り得ない、自分はこの人をそこまで見くびってはいないし、彼女の親友ともなればかなりの切れ者と見るのが妥当だろう。気は抜けない。
「そんなに硬くならないでください、本当に一つですから」
「……なんでしょう」
 もう一度同じ言葉を返した彼女の表情は相変わらず、不信感が露であった。
「あなたは彼女の親友だと聴いていますが」
「……お嬢様がおっしゃったのですね」
「初めて会った時、彼女の髪はどうでしたか」
「髪……?」
 ほとんど独り言のような潜められた音が、微かに動いた唇から漏れ聞こえた。不機嫌に歪められた顔。そして、明らかに怪訝な視線を瞳が投げかける。
「どのようとは、どういう意味でしょう」
「例えば色が茶ではなく金だったとか、今のようにウェーブでなかったとか……」
 ここまで言って、彼女の様子をちらりと窺う。
 高まる鼓動が耳の奥に響いて酷く煩わしく、そんな自分が滑稽に思えた。たかが一つの事を確かめるための過程でしかないにも関わらず、何故こんなにも緊張してしまうのかと。
 そうして間をとっても、彼女は私の言葉の続きを待っていた。その先に核心が隠れている事を彼女は見抜いているのだと直感し、やはり只者で無いということが知れたのである。
「そう、例えば今からは考えられないほど短い髪だった、とか」
「…………」
 急速に速度を落とし沈んでゆく気持ちと共に、目の前に立つ無表情な女性はしばらく考えて言った。
「確かに……とても、短い髪でいらっしゃいました」
 緩やかな速度の言葉はじわじわと脳に染み込んでいく。そして同時に、まるで霞がかった世界に光が差し込んだかのように、真実の輪郭がはっきりと浮かび上がった。
「そうですか」
「はい。ですが、それが何か」
「いえ、大した事ではありません。少し気になったもので」
 少々怪訝な目をしながらも、そうですかと返した彼女の顔が幾分柔らかな雰囲気になったようで安堵した。これから何度顔をあわせることになるか分からないのだから、関係が悪くてはかなわない。
 それから簡単に挨拶を済まし、へ“お大事に”と伝えるよう頼むと、くるりと踵を返した。そして道端に停めた車に乗り込もうとドアを開けた時、徐々に近付いてくる機械音に気付いた。
 その方を見ると一台の車が速度を落としながらこちらへと走ってくる。そしてそろそろと、自分の立つすぐ脇に停車した。
「マスタングさんでしたか」
「これは卿、お久しぶりです」
 高級車の窓から、いつになく上機嫌な顔を覗かせた家当主の男とは、見合いの日以来会う事が無かった。聞けばいつも仕事の関係であちらこちらに出かけているために、家に居ることさえ稀なのだそうだ。
「いやいや、家の者から聞いています。ここの所、日を空けずにいらっしゃっているようで」
「ええ。しかしお嬢さんの具合はなかなか良くならないようですね」
「ああ……このところ父親の前にすら姿を見せないのですよ。全く、手のかかる娘で困ってしまう」
 明るい口調で言う声の主の目元は車内の暗さに混じって見えず、微かな街灯は口の動きしか見せてはくれなかった。
「そうだ、マスタングさん」
 そろそろ暇を申し上げようとした時、思い出したかのようにその人が言った。
「実はこの度、セントラルから一つ事業をこちらに移そうかと思いましてね」
「東部に、ですか」
「ああ、こちらの方が私にとっては何かと都合が良いのだよ。もちろんセントラルは国の中心ですから、完全にこちらに移すわけにもいかないだが」
「そうですか」
「つきましては再来週、東部の方や事業関係者を集めて宴席を設けることになっているんだが」
 言いながら、卿は一通の封筒を窓越しに差し出した。白地に華やかなブーケの絵がちょこんと載った、簡素なものであった。
「良かったら参加してくれたまえ。家一同、喜んで歓迎しますぞ」
 その社交辞令めいた言葉のどこかに含みを感じたが、それが果たして何なのか、確かなものは何一つ見えなかった。
「……ありがたく受け取らせていただきます、卿」
 伸びた手の上からすっと封筒を受け取った瞬間に見えたその顔は、いかにも「人がいい」、そんな笑い顔だった。
「それでは、これで」
 満足げに卿が窓を閉めようとするが、「すみません」とそれを遮った。
「ちなみに伺いたいのですが、こちらに移す事業というのは何なのです?」
「ああ、製薬関係のものですよ。東部の方が研究には向いているのではと随分と前から研究所の所長から言われていてね」
「長年の念願がかなって、ということですか」
「そんなところだ」
 その話もそこで打ち切られ、挨拶もそこそこに氏は車をだした。

 何故今、事業の移転をするのだろう。
 氏の乗る車を見送っても、しばらくその場を動けなかった。自分の車に寄りかかって先まで車のあった石畳の路面を見つめている。
 家の行う製薬事業など、聞いたことがなかった。大々的なものではないのだろうか。しかしこれだけの家が、どうしてそんなに小さなビジネスをする必要があるのだろう。あの人を見ている限り、やるなら徹底的にやりそうなものだと思う。
 そして誘いを受けた宴席に、足を運ぶべきかと考えた。親しくしていると言えばそのとおり、しかも封筒を当主直々に手渡されているのに行かないと言うのも失礼だろう。きっとその場には、本人も姿を現さないわけが無いと踏む。結果は決まったも同じようなことだった。
 過去に触れるなと言い残して去って行ったきりのと、セントラルからの事業移転の話。よくは分からない、どこかで欠けている数ピースが見つからない。砂浜に落ちてしまったたった一つの貝殻が、どこに埋まっているのかさえ見当もつかない。
 ただ何かが動き出している事を、感じずにはいられなかったのである。




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