鳥籠に在る君を見て


「はぁ……」
「一体どうしたって言うんすか、今日は朝からため息ばっかり」

 カラッと晴れた日差が窓からこぼれ、背はいつになく温かい。眠気とともに、襲ってくるのは書類の山。早く手にとってくれと言わんばかりに積み上げられた紙が、とても煩わしい。ペンを持つ手にやる気は無いように見えるし、現に目の前にいるハボックものろのろと手を動かす上司からのサイン待ちを喰っている状態。
 しかしため息の理由は仕事のことではない。

「いや実は……仕事の後に約束があってね」
「デートなら別に嫌がらなくても」
「そんな物なら、私だって嫌気がさしたりはしない」
「え? じゃあ約束って……?」
「“見合い”だそうだ」

 はは、と軽く笑った後、ハボックは少し羨むように言う。
 ペンを置き、背もたれに寄りかかる。視線はぼんやりと見慣れた司令部の天井を泳がせ、腕を組んだ。

「縁談話が来るなら良いじゃないですか。俺なんてそんな話一つも舞い込んで来ませんけどね」
「……機会があったらどこかの令嬢を紹介するぞ?」
「遠慮しときます。俺、そういった方と折り合いが付きそうに無いんで」
「何事も経験だぞ、少尉」

 にこやかにそうは言ったが、内心それよりも、今晩の事のほうが気が気でない。何せ今回の相手もその手の人なのだ。

「でも大佐、今までは断ってませんでした? 何でまた急に見合いなんて」
「今回の話ばかりはさすがに断れなかったんだ」
「今度は大総統直々のご紹介とか?」
「……近いところがあるな」
「ま、まじっすか!?」

 今までも美味しい縁談話は星の数ほどあった。『将来有望』というレッテルの下に舞い込むものは、はたから見ればどれも魅力的に映るのだろう。経済的な余裕、周囲からの羨望、そして社会的地位と権力の保障。簡単な手続き一つで夢に見たものが全て手に入るのだと。
 しかしその羨みとは別に、その婚姻の裏に黒い策略があることも良く知れたこと。しかしそれでも旨い話と思い、貴族との関係を結ぶ者も多いのが現実。
 ――権力のみを欲するだけの人に、なぜ愛情などがわくというのだ。はたしてそれは本当の幸せなのか……。

「先日、中央から来た将軍がいただろう。あの方にいただいた話だ」
「はぁ」
「何でも相手はなかなかの名家らしい。軍にも多額の寄付をしているんだとか」
「あー…大佐が断れないのも無理ないっすね」
「だろう? しかも上から貰った話を無下に捨てるわけにもいかないからな。適当に会ってお茶を飲んだら帰るつもりだ」
「へー……ちなみになんていう家のご令嬢?」
家、とかいったかな。まったく、面倒だ」
「しっかし……本当にいいんですか、大佐。そんな話、来るのはきっと今のうちですよ?」
「……ハボック、だからお前はいつまで経っても恋人ができんのだよ」

 権力者と貴族の結婚に年齢など関係ない。本当に力のあるものならば、年をとっていてもそれなりに話はやってくる。それすら分からないわけでは無いだろうに。
 体を起こして彼の手から書類を受け取ると、愛用の万年筆でサインをした。ひらりとそれを返すと、ハボックも話が終わった事を知る。いつも唐突に始まり、あっさりと終焉を迎えるこのやり取りにも、長年の付き合いで理解してきたものだ。

「せーぜー、頑張ってくださいね」

 嫌味っぽくそう言うのが精一杯だったのに、あぁと軽く答えられたのには思わず力が抜けてしまった。器の違いというか大人と子供というか、とにかく人としての格の違いというものを感じずにはいられなかったからである。




+ + + +




「父上!」

 大きな屋敷の一室。そのドアが荒々しい音を立てて開いた。そこはある種の私室のようではあったが、そこにある調度品はどれも風格を持っていた。
 壁に掛かる、名品と呼ばれるに相応しい大きな宗教画。アンティークの独特の重厚さをたたえたキャビネット。鮮やかに色付けされた陶器や繊細なガラス器が並ぶショーケース。褐色の艶を持った大きなテーブル。そしてそのすぐ傍の、レザーソファに深々と腰を掛けた恰幅の良い初老の男――。

「ああ、。一体どうした、そんなに大きな声を出して」
「今夜会う人がいるというのはどういうことですか!? 今日は友人との約束があると、前から言っておりましたのに!」

 酷く落ち着き払った、父と呼ばれた男とは対照的に、はその不服の念をあらわにしていた。荒げた声に、彼女に続いて部屋に入った使用人は驚き、深々と頭を下げた。この親子の抗争には巻き込まれたくはなかったようで、何も言わずにドアを閉め、中には2人だけが取り残される。

「少し落ち着きなさい、
「嫌です。これで一体何回目だとお思いですか! もう私の両手では足りませんよ!!」

 ずかずかと、父親の座るソファに近づいて睨みつける。大きな手振りをしながら、その怒りのままに言葉にするが、それは全く無意味であるようだった。手ごたえが無いのである。
 父ならば娘の言葉に耳を傾ける事も当然のことだというのに、その男は考えるそぶりも見せず、淡々と話すのである。

、そなたもそろそろ少し身の振り方を考えなさい。家の一人しかおらん娘ではないか」
「それでも、私は父上が決めたような方と結婚するつもりなど毛頭無いと、以前から申しています」
「ジャスリックの家の娘は、もう婿をとったのだぞ?」
「彼女は彼女です! 父上は私よりも、この家が大切なの?」

「……失礼します」
「相手がお見えになるまでには着替えておきなさい」
「…………」

 彼女はきっと父を睨みつけると乱暴にドアを閉めてでて行った。嵐が去った部屋に残った家の主といえば、落胆した表情で深いため息をつく。
 彼女の政略結婚を嫌がる気持ちは分からなくもないのだ。事実、自分もそうして名ばかりの幸せを手に入れていたのだから。彼女はまだ若い。そのために周りが見えないこともあると言うことを、早く知ってもらいたいのである。
 そう、その時手に入る、特異な幸せがあることをまだ知らないだけ。はたして今日の相手は娘の目にどう映るのだろうと、そればかりが気がかりでしかたなかった。




+ + + +




 ハボックの前ではあんなに余裕綽々だったとはいえ、どうにも気が乗らない。約束の時間に間に合うようになんとか重い腰をあげ、自らの運転する車で目的地へと向かったものの、アクセルを踏む足は徐々に重くなる気がした。スーツ姿で運転するのも久しぶりで、その堅苦しさには益々嫌気がさす。
 傾き始めた太陽を横目に、車は市街地へと向かう。次第に立ち並ぶ家々が品を持ち始め、それと比例して大きさも増す。いわゆる高級住宅街とも呼ばれる土地を、もうしばらく行った所が目的地である。町の喧騒はきっと届かない、静かなところだと聞いていた。
 何が好きで、会った事もない人と会って、他愛ない話をしなければならないのだろう。自分の目で見て惚れた人との話に楽しみはあるが、今まであった数あるこういった場での話が楽しかったという思い出は皆無だ。皆が求めるのは自分の地位だけで、その下心が見え見えなのが気に食わない。無理やりそういった関係を持って、責任をかぶせる形で婚姻の契りを結ぼうとする愚かさが鼻に付く。
 とにかく煩わしい、そんな事全てが。
 ヒューズの話を聞けば、一生の伴侶を作ることもそんなに悪いもののような気はしないのに一体何故なのだろう。
 
 地図で確認し、角を曲がると途端に目の前が開けた。住宅地からは少し外れた、小高い土地に見上げんばかりの大きな門。人目でそこが、自分の目当てとする場所だと分かった。
 アーチ上の正門から、真っ直ぐに伸びた道の先にある建物。しっかり剪定された木がその緑も鮮やかに、整然と立ち並ぶ前庭。その屋敷をぐるりと取り囲む大きな塀は、その家の大きさを一層引き立てていた。
 その前に車を停めると、すぐに門番と思しき長身の男が窓に近づく。

「ロイ・マスタングという者ですが」
「お待ちしておりました。どうぞ中へ」

 窓越しに名前を伝えると、すぐにその男は正門を開いた。
 正直、この手際の良さには驚いたのである。暖かくなってきたとはいえ、日が沈めばまだ肌寒いこの季節。寒空の下、確認して参りますなどと言って待たされるのを覚悟していたからだ。
 車のキィを預けるとすぐに屋敷の中へ案内される。それはこの屋敷の主の力量だろうと思い、印象は悪くはなかった。
 しかし、そんな事を言ってもどうせお断りする縁談だ。どんなに印象が良くとも、ほとんど意味の無い事のように思う。

 玄関を入ると眼前に広がったあでやかな装飾品たち。
 大階段の踊り場には、鮮やかな緑となだらかな丘陵が描かれた油絵が掛けてありこの空間に一層の彩りを持たせた。手すりは白く、上品に添えつけてあり、天井には眩いばかりのシャンデリアがキラキラとした光を降らせ、本当の名家なのだと思い直した。なんとなく息苦しい。
 しかしそのきらびやかな雰囲気とは裏腹に、やはり気は沈むばかりだった。これからしばらく、気まずさと戦いながら、やんわりと縁談をお断りしなければならないのだ。下手をすれば、自分の将来にも悪影響を与えるのだから、神経が擦り切れることも覚悟の上。

「おぉ、君がマスタング君か」
「初めまして」
「今日はわざわざ足を運んでくれてありがとう」

 そこで鑑賞をしつつ待つことしばらく、現れたのはこの家での一番の権力者であろう、恰幅のいい紳士であった。白い髭をたくわえ、いよいよ緊張してくるのが分かった。

「聞いていたよりも随分とお若く見える」
「よく、言われます」

 堅苦しい挨拶を交わして、軽い自己紹介をする。天気の話に始まり、この家の話、家の事業の話……自分にとってはどうでも良いといえる事を、さも関心があるように話していた。なんと言っても会うのはこれが初めてだ。そのせいでお互い変に気を遣ってしまっていた。
 不謹慎と知りながら、早くこの場を去りたいと願わずにいられない。
 
「しかしこんなにも素晴らしい家柄にもかかわらず、私の様な者のところにまでお話が回ってくるとは、何か特別な理由でもあるのですか」

 家を見て思った疑問を、遠まわしを念頭にしつつ差し障りない程度に詮索する。これもなかなか面白みがあった。これだけの地位や財力を持てばどんな女性であろうとも、婿入りしてくれる男は山のようにいることだろう。

「えぇ……うちの娘は少々気が強いところがあるものです。今まで幾度も機会はあったのですが」

 卿は言いかけて、ふと耳に入った雑音に、今しがた自分が下りてきたばかりの階段に顔を向けた。それと共に、耳を澄まして音を探る。どうやら階上から聞こえる……話し声、だろうか。
 しかしその内容までは聞き取れなかった。すると今まで自信があふれていた白髭の氏は顔を歪ませて、妙に落ち着きがなくなったように見えた。

「少々上が騒がしいようですが」
「ああ……はい……」

 しばらくその話し声は続き最終的にはバタン! という凄まじいドアの閉まる音がして、その声は聞き取れるまでになった。

様っ! まだ御髪を上げておりませんよっ!!」
「いいわよ、どうせお断りするお話ですもの」
「ですがお父上様が」
「いいって言ってるでしょ、父は関係ないわ」

 そして大階段の上から人の気配がして、かつかつと靴音を高らかに鳴らして歩く音と共に人影が現れる。白のドレスの裾を揺らして、細く華奢な体つき。その足元から、ゆっくりと視線を上に向けた。

「君は……!」

 それは、いつか街で助けた人に間違いなかった。
 あの時ウェーヴしただけだった髪は綺麗に巻かれ、ブラウンの長い髪にその白い肌が眩しいくらいに見えた。彼女はぐっと上品で清楚な雰囲気が漂う白のドレスに身を包み、不思議な力を秘めたあの黒い瞳でこちらを見つめていたのである。





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