霧雨の下、一人孤独で



「なぜ、君がこんなところに?」
「知らないわ、煙草臭い人に連れてこられただけだもの」
「……ハボックか」
 半ば呆れたように目を伏せながら、肩の力を落とした。相変わらず、可愛い性格ではないと改めて思う。書類が無造作に散らばった机の向こうにそんな思い人の姿を見る。
 窓からどんよりと伝わる重い空気は今居る部屋の雰囲気そのものであり、デスクの端には1時間前に注がれたコーヒーがあるものの、それもとうに冷めきっていた。
 朝起きた時には明るい日差しを浴びていた。しかしいざ外に出てみれば、西の空には憂鬱の種でもある暗い空が迫っていた。ロイが陰鬱な気分で司令部の執務室に入ると、既に窓の外は本降りとなっており、遠くに見える綺麗な赤い屋根の波も今やぼんやりとしか見えなかった。
 全く面倒なことをしてくれたものだと再び大きく息を吐いて背もたれに重みを掛ける。一般人の彼女をここに連れ込むなんて、一体どういう神経をしているのかと、部下の不手際に少々の憤りを感じながらも、彼女の前でその姿をさらすわけにもいかない。ハボックのした事は彼女にとっては助けであっただろうから、自分我原因となって部下が戒めを受けるのを見るのは心苦しいに違いないのだ。
 そんな風に思われていることなど全く知ることの無い本人は、全く蚊帳の外といったように執務室のソファに深々と腰をうずめていた。リラックスした様子でしっとりと濡れた甘い色の髪を、司令部ではなかなかお目にかかれないような上質なタオルで丁寧に拭いている。白々とした顔に、淡い色のルージュがとても艶にみえたが彼女の瞳はいつになく曇り模様である。
 その日も着ているものは質素そのもので、白いスカートに淡色の茶のコートを羽織っていた。
 誰がこの人を有名旧家のお嬢様だと思うだろうか。町を歩けば出会えるような、おとなしく少し品のあるような女性だと思う人が大半と思うし、それ以上を誰が想像してみようか。その髪や肌に入念な手入れが施されていたとしても、今の彼女のいでたちからでは特別に高貴なものを窺い知る事はできないのである。周囲の空気の色を隠すことに長けているのかもしれない。
 もしくは自ら望んで今の肌や髪を手にしているわけではないことも関係するかもしれない。他の貴族から冷たい目で見られ、蔑まされる事を嫌った頭首の所存の一つに彼女は何も言わず、ただ従っているだけということも考えられるのだ。その家に生まれ育った自身のの運命に振り回されて、これまでどれだけの我慢をしてきたのだろう。自由を求めれば求めただけ、束縛される巡り合わせの彼女に同情せざるを得ないのも、致し方の無いこと――胸が詰まるある思いである。
 すると、ノックの音が部屋にこだます。視線を彼女から離して、入れと一声。
「ご注文どおり、“温かい紅茶”お持ちしました」
「そこにおいてくれ。それとハボック、こんな状況になった説明を」
「うわ、いきなりそれっすか」
 能天気な声色をしたハボックは大きな音を立ててドアを閉めると、小粋に片手に乗せたトレーから、の前のテーブルに紅茶を置いていく。その脇には、小さなシュガーポットとミルクも忘れずに。
 これも『慣れない人が砂糖をいれると、美味しくないの』という、の希望だそうだ。彼女はいつの間にかタオルから指先を離し、ハボックに礼を言うと早速目の前に置かれた紅茶の香りを楽しみ始める。とはいえそれも司令部に常備されているものに違いはなく、楽しめるような香りはしないはずである。
 全く、人の気も知らないでのん気なものだ。そして彼女に上手いように使われていたハボックはといえば、にこにことカップを手にしている彼女の姿をこれまた幸せそうな様子で見入っていた。
「で、ハボック。なんで彼女がここにいる」
「だから、雨の中傘も差さずに女性一人っつうのも危ないんで保護したんですよ」
「だからって、普通司令部にまで連れてくるか?」
「彼女に家まで送ると言っても断られたので」
「だから連れてきたのか?」
「彼女一人そこに残してくるわけにもいかないじゃないですか」
「で、無理やり連れて来たと」
「無理やりは余計です」
 ハボックが彼女をここにつれてきた理由に一つ足りないものがあるように思ったが、それを明らかにするのは気分が悪くなるだけだ。彼の淡い思いはそのうち消える。それもそう遠くないうちにという勝手な自負。
「それより俺が聞きたいのは、大佐とアガットさんの関係っすよ」
「……アガット?」
「とぼけるんですか、彼女を目の前にしながら」
「ちょっとまて、今あそこに座ってるのは」
「マスタング大佐?」
 タイミングを見計らって話しに滑り込む彼女の一言に部屋はしんと静まり返り、どこか遠くの部屋から聞こえる笑い声だけが微かに耳にとらえられた。
「お忘れにならないでください。私、街に歓迎されない人ですよ」
「……ああ」
 彼女はじっと手元のカップを見詰めている。それは世に対する拒絶にも見えたし、もう自分の“生”に見切りをつけたようにも見えた。彼女の体全体から発せられる雰囲気が、脆そうに思うも痛々しい。歓迎されないということは、この街にいてはいけないことを暗示したし、それは同時に本名を名乗ることの危険性をも示している。
「歓迎されないって……まさか前科持ちとか」
「口を慎め、ハボック」
「あら、いいわね、前科持ち」
 彼女はくすりと笑ってハボックを見上げ、遊んでいるのは明らかだった。年齢から見れば彼女とハボックにたいして差は無いはずなのに、その心の内にある余裕はまるで違っていた。
「えーと……アガット?」
「なんだか貴方にそう呼ばれるのも変な感じね」
「仕方ないでしょう。女性とは知られては困る事が多いのだから」
「……まぁ、それは女性に限ることも無いでしょうけれど」
「返事は致しかねるね」
 互いにぎりぎり分かるくらいに比喩的な言葉をつけて送る、その会話は不思議なほどこの2人に似合うとハボックは直感した。その中身まで詳しく何のことか分からないにしても、目の前で繰り広げられる会話の往来は聞いていて飽きなかった。
 しかしアガットと名乗るこの女性は一体何者なのだろう。大佐と親しく、可憐な美しさがあるがそれ以上に品のよさが目を引く。そしてこれだけの会話を交わせる頭の回転の速さを持ち合わせた女性。時折現れる女性と話す大佐に比べ、今彼女を前にした上司の様子は数倍も楽しげである。
「しかもこんな天気の中、出かける貴方も貴方ですよ」
「誰も俄雨が降るなんて思いもしないわ」
「しかし今日の空模様は、1日快晴というものでは」
「あら、さすが国家錬金術師ね。化学的なことは何でもお任せってところかしら」
「あー、それは」
「おいハボック!」
「いいじゃないですか、減るものじゃないっすよ」
 狡猾なハボックの目つきにロイが押し黙ると、次にの口元に浮かぶ微笑み。嫌な予感がした。
「天下の大佐様にも弱点があるわけね」
「…………」
「まぁ、大体予想はつくけれど」
「予想、とは」
 得意げな表情で一度カップに口をつけ、しばらくの沈黙。間の取り方を熟知している、とそう思う。
 知りたくてうずうずしているこちら側を欺くように、すぐに答えを口にしない彼女は、やはり話していて飽きない人だ。
 ふーっと温かく長い息を吐くその様子を見つめながら、しばらく待つことほんの数秒。しかしその時間は思いのほか長く感じられてデスクの上に広がる仕事を終わらせることすらできる気がした。
 そしてさも当たり前、といったような口調で彼女は話を切り出す。
「私が何も聞かずに貴方にお会いしたとお思いですか?」
「……いや」
「一応、あの場で軍の方だという事を父上はおっしゃっていたけれど、貴方がやって来る前にそんな事は教えられていたんです」
「ほう」
「貴方の配属されているこの東方司令部のことも、貴方の階級も。もちろん、“焔”を二つ名に持つ国家錬金術師、ということも」
「では自己紹介は不要でしたね」
「形式の一つだもの、仕方ないことです。そして焔といえば、相反するものは水でしょう? まさかとは思っていたけれど……今日の天気すらその敵だなんて思いもしなかったわ」
「はは、君の意表をつけたことを嬉しく思うよ」
 営業用の作った笑顔はぎこちなく、その声も幾分乾いていた。あの場で、この人は自分をどう思って対峙していたのかと思うとなんだか情けない。
 持論を述べた彼女は満足げにソファに座り直しか細い指を絡めた紅茶をもう一口。
 そしてロイの内にぼんやりと違和感が生まれる。彼女との一連の会話にどこか腑に落ちない心地悪さを感じてしまったのである。悔しさこそ思いはせず、かといって納得できたわけでもない。
「ハボック……」
 話にきりが付いたというのに、ぼうっとその場に立ったまま仕事に戻ることもしようとしない部下に文句の一つでもと思ったが、その眉間によった皺を見て何もいえなくなった。口元でぶつぶつと何かを言っているようだがよく聞こえない。うつむき加減の視線は、一点を見つめているがその視点は定まっていない。呼びかけたにもかかわらず、全く気が付いていない様子である。普段の職務中に、彼のこんな顔を見ることはなかなか無い。
「ハボック?」
「……
「え?」
「あんたが、?」
 執務室の空気は一瞬にして重みを増した。忙しい音を立てながら室内にこもる雨音。いつの間にか、近くの部屋で聞こえていた卑しい笑い声も聞こえなくなっていた。
 ハボックがまさか彼女の本名を口にしてしまう事など、彼の上司にも分からなかった。窓の外で稲妻がほとばしり、窓に打ち付ける雨の音が一層大きくなる。
 彼女の口端が突然上がった。
「……知られてしまいましたか」
「えっ、じゃあ……」
「そうよ、私が。ふふ、貴方がいつ私のことを見破るのかと思って、ずっと期待してたのよ」
 貴方の上官は、きっとお見合いのことを貴方に話しているでしょうと踏んでね、と皮肉るの横では、疲れきったようにデスクに突っ伏すロイの姿。
 全く動じた様子を見せないには感服である。あれほど人に知れる事を拒絶していたのは誰だったかと、彼女の言動にひやひやしていたのだ。
 そう、違和感の原因はこれだった。会話の中で必要なのは国家錬金術師の二つ名だけであったのに、わざわざ初めて会ったときの事などを話し始めた彼女の真意。それが見抜けなかったこと、そして縄を渡るかのような会話が全て彼女のたくらみであった事を知ると、なんとも口惜しい。
「それで……貴方のほうから、会ったときの事をおっしゃったんですね」
「そうよ?」
「貴方の事が、万が一部下に知れたらと思って肝を冷やしていたというのに」
「それは失礼しました。私、人を試すのが好きみたい」
 彼女は楽しそうにそう言い放って、ティーカップをソーサーに戻した。それから、先ほどまで髪を拭いていたタオルを丁寧に手早くたたむと、おもむろに立ち上がって、感謝の言葉と共にそれをハボックに渡した。
 ゆっくりとロイを振り返り、作られた顔で微笑む。
「それでは、私はこれで失礼します」
「じゃぁ、俺が送りますよ。ここに連れて来たのも元はといえば俺が」
「いえ、結構です」
「でも……」
「ミス・、この雨の中、女性を一人だけで送り出す人の気持ちも考えてくれないか」
 ハボックの申し出を断りつつ、彼女はきょとんとした顔をしたが、またすぐにその気丈さをロイに見せた。
「あら。私、煙草の臭いが好きでないだけなのよ?」




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