記憶の色はセピア




「本当に、話してくださるのね?」

 その部屋は不気味なほど無音で寒々しく、唯一の灯りは窓際のデスクに備え付けられたスタンドだけだった。それも酷く弱々しい。暗がりに浮かび上がる影はひっそりと佇んでおり、得体の知れないものが潜んでいるような不気味さを感じさせた。
 女は前を行く男の背を冷たくも真剣な眼差しで見つめる。雲に隠れた月光がわずかに漏れて、デスクの向こうにある窓の外を照らしている。そこから望む中庭も、宴会を催している会場とは全く逆のしっとりと落ち着いた雰囲気でそこにあるだけだった。反射したガラスは、闇に浮かぶ背後からは見えない男の顔を曖昧に映している。

「ええ、もちろんお答えいたします。貴方の知りたい事は全て……」

 男は振り返ると、卑しい笑いを浮かべた。背にした蛍光灯のせいで、表情の凹凸がまた一層異常なものに見える。は向かいに立つ男を睨んだまま動けずにいた。

「まあそんなに硬くならないでくださいよ」

 アーキンは肩をすくめ、にソファに座るよう促すと自分もその隣に腰掛ける。その行動に一抹の不安を覚えるがには何も言えず、ただ黙って膝の上で重なる手に力を込めた。
 対等に話をするならば、こんな風に軍人の隣に座る事は無いはずだと思う。しかしそれはあくまで“対等”という場合のみ。自分は聞かせてもらう立場だ、分かっていたことだろうと無理やり自分を納得させる。

「それにしても驚きました。こんな所で貴方に会えるなんて」

 アーキンは背もたれに腕を回す。しかしはわざとそれに気が付かない振りをする。胸の内にあるのは自分を納得させるための言葉ばかり。

「前置きは結構よ、アーキン少佐。言ったとおり、私にはあなたと昔を追想して語らうことや感慨に浸るようなことは出来ないの」
「……そうですか」

 近づく顔をふっと止めて、臆したように言葉を紡いだ男の情けなさは、何よりの心を寒々とした失望に招いていく。そう簡単に引いてもらっても、まるでこちらに非があるかのように思えてしまう。もっと張り合いが欲しい。見え透いた言動に始まって、何から何までこの男は私をいらいらとさせる。

「本題に入りませんか?」
「……そうですね」

 誘いに素直な返事を返したことに違和感を覚えた。ちらりと隣にいる少佐を盗み見ると、穏やかな微笑が顔に張り付いていた。言い知れぬ恐ろしさに背中が粟立つのを感じて顔を背ける。アーキンはそんなあからさまな様子をとがめることもしない。
「ところで」とアーキンは半ば嘲笑うかのように言い、との距離を詰める。

「等価交換という言葉をご存知ですか」
「……っ!」

 返答を待たず、自分の問いさえ言い切らぬうちにアーキンは動いていた。が答えを発する時には、もう既にその視界は変わっていたのである。
 背にはソファのしっとりとした冷たさを感じ、天井を背景に勝ち誇った顔で自分を見下ろす、決して整っているとは言いがたい男の顔を見る。その瞳の奥に狂気染みたものを感じて目が逸らせない。心の底から、恐ろしいと感じる初めての感覚。戸惑いながらも必死で冷静さを取り繕う。そうすることでしか、まともに話し合いが行える余裕が生まれなかったのだ。

「何かを得るためには、同等の代価が必要である……ということ、よね」
「ご名答。流石は国家錬金術師の娘のことだけはある」

 アーキンは左手をの顔の脇につき、右手で髪をゆっくりとすくい上げるとそっと口付けた。その行動がまた、を苛立たせる。わざとらしい動作の白々しさが憎い。愛しそうに扱っているつもりなのだろうが、心がこもっている様子は微塵もない。

「私の本当の父は、国家錬金術師だったのね?」
「ええ」
「今はどうしていて?」
「――それも聞きたいのですか?」
「もちろんよ」

 早く聞き出してしまいたい、そして早くこの人から逃れたい。そんな祈るような気持ちもあっただろう。しかしアーキンはあくまで焦らすつもりらしく、冷笑して見下ろすばかり。
 髪を離れた右手の指が首筋から鎖骨へと下がって行く。はぞくぞくと背中を這い上がる冷たくも熱い感覚に耐え、唇をかみ締める。そこで初めては顔を背け、目を瞑る。すると頭上から、乾いた笑い声がした。

「明かりの下では高飛車に見えた貴方も、こんな時には普通の女と変わらない」
「……そんな事はどうでもいいの」
「全く、女は性急で困る」

 思いをめぐらし、行き着いた先にあった信じがたい予測。まるでテラスから突き落とされた様な衝撃だった。一瞬にして悪夢から覚め、しかし尾を引くように残る後味の悪さ。“まさか”という思いがの頭をまわって行く。この人が対価として望むのは、今回だけではないのか……?
 背けられた首をゆっくりと元に戻した。茫然としたまま瞬きもせず、息すら止まりそうになった。

「そんなに動揺することでもないだろ? まさか今日で全てかたがつくとでも思っていたのか?」
 
 振り上げた右手はあっけなく捕まってしまう。手を引こうにも力の差は歴然として、上体を起こそうとしても抜け出すことは不可能だった。何もできない事が無性に歯痒い。自分が女である事をこれほど後悔したことがあっただろうか。

「怖い顔をするね」
「最低なひと……!」
「言わずとも全てが分かったようだ」
「馬鹿にしないで!」

 そもそもこんな人を信じてしまった自分が浅はかだったのだ。自分の過去に固執しすぎて判断力が鈍っていた。考えてみれば、誘い出されたのは鎌を掛けられたからのような気がしてならない。私は今日をきっかけに幾度となく、この人の都合に合わせた女にならなくてはならないのだろうかと考えるだけでどうしようもない怒りがこみ上げる。一度の我慢で解決できるものなら良かった。しかし機会が分割されていけば、事実に反する事を吹き込まれる可能性は高くなるだろう。何より私のほこりはどこへ行く? それすら失わせると言うのなら、いっそ過去など知るより死んだほうがマシと言うもの。しかし抜け出せないこの束縛を、一体どうしたらいいのか。
 にはもう打開策を見つける余裕も時間も残されてはいなかった。諦めるしかないと手に込めた力を抜くと、あっけなく解放される。大人しくなった事を好機と思ったのか、アーキンは先ほど指でなぞった首のラインに首を埋める。顎にその髪が触れて、そわそわとした。男の骨ばった手がの白い肌に置かれ、ドレスへと掛かる。






















***




















「ここでいいのか?」
「私がご用意した部屋はここですので、間違いありません」

 に案内されたのは、ホールからは随分と離れた人気のない場所。そこに並んだドアのひとつの前に、今ロイ達は立っている。
「私が入りましょうか」とりリーは申し出るが、それはロイによって止められる。

「ここは私に任せてくれないか」

 ドアの前に進み出るとリザがその直ぐ後についた。中からは大きな物音どころか、めだった声もしないようである。
 ここに本当にあのふたりがいるのかどうかは、を信じるしかないことくらい重々承知だ。この屋敷にいる限り、自分に大きな力は無いのだから。信じること、そしてまだ引き返せるところで踏みとどまっている事を願うしかない。
 ドアをノックする。その場にいる三人の気配以外で何も感じるものはなかった。静まり返って不気味な邸内、部屋の中からの返事はない。もう一度、少しばかり乱暴に木目を叩いたが状況が変わることはなかった。

「……ふたりは居る筈です」

 の小さな呟きを、ロイも信じたかった。とリザに少し離れるように言って、ロイ自身も廊下めいっぱいに下がった。小さく息を吐く。そして息を詰める。地を蹴り上げ、廊下と部屋を仕切る板に一心に力を込めた。肩から鈍痛がつま先まで伝わり、落雷したような凄まじい音が人の耳を貫く。同時にはっと息を飲む音がロイの耳に届いた。目の前に広がるくらい部屋。が部屋の明かりを灯すと、シャンデリアが照らす。



 部屋にはふたりがいた――ソファに横たえる人、横たわる人。




「アーキン……」

 目を見開いた男の顔ははっきりと見えた。驚きと焦りの色が浮かぶ。しかしその下にいるドレスをまとう女性。その表情は見えないが、見覚えのあるブラウンと薄い桃色のドレスは、見間違うはずも無い――だ。
 不気味な静けさが辺りを包み、誰ひとり動こうとする者がいない。ある者は驚き、ある者は焦り、悲しみ、また憤りを覚えて言葉を継げない。もう遠くからの音楽など聞こえてこなかった。それは部屋がホールから遠いことばかりが原因ではない。おそらく宴席が終わりを迎えたのだろう、もしかすると先ほどドアを破った音を聞きつけて誰かがやって来るかもしれない。
 焦燥に駆られつつも、それ以上にロイの足元からどろどろとした酷く醜い感情が這い上がる。振り払おうにも振り払えないその思いをどうにかしたくて、必死に行動を起こそうとするが上手くはいかず、またイライラとし、感情の黒さも増す気がした。
 その重い空気の中で最初に動きを見せたのは、アーキンであった。ゆるゆるとソファについていた腕を引くと、彼女の上から降りてソファの横に立った。横たわるは起き上がるような気配は見せない。
 アーキンからは先ほどまでの表情は既に消えていた。むしろ余裕気に笑う顔が何とも下劣である。

「マスタング大佐が何故こちらへ?」

 人として、恥ずべき光景を見られたことに対して何も感じていない。そこにいる誰しもがそう思ったに違いない。動揺の色もなければ、自省の念すらその言葉から感じることはできなかった。冷静を通り越し何も感じないその冷めた心に、またロイの心の中でどす黒いものが大きく膨れ上がる。

「そこにいるのは、ここの家のお嬢さんではないのかね?」
「……よくご存知で」

 ロイは余裕気に笑うその男へ、乱暴に歩み寄りその胸倉を掴む。殴りたい衝動に駆られるが、の前で血を見せる事を躊躇いぐっとこらえる。

「アーキン少佐……自分が、何をしようとしたか分かっているのか」
「分かっています。しかしこれは彼女も同意の上でのこと。問題は無いのではありませんか」
「……この女性が、私の婚約者であってもそんな事を言う気か?」 

 それはとっさに出た嘘である。見合いは確かにした。しかしそこまで話は進んでいない。
 しかしアーキンは上官の口から聞かされた言葉に一瞬ひるみ、それでも強気な態度を崩そうとはしなかった。

「ご冗談を。この方はそんな事一言も……」
「本当だ」

 睨み付けられ、気圧されたようにアーキンは息を飲む。
 傍らのソファに横たわるが、その間に逃げる様子はやはりない。我々の小さな会話に耳を澄ましているようである。鍵の壊れたドアの側には、まだあの二人が立っているだろう。駆け寄ろうにも、睨みあう二人がこんなにも近くにいては歩み寄るのも難しい。

「今後一切、彼女には近づくな」

 しばらく硬直していた両者だが、ふいにロイは息を吐き拘束を緩めた。これ以上、何か言ったところでどうにもなら無い気がした。仮にも職務の時間中にこの男の行ったことは決して許されはしないが、咎めるのはここですべきことで無いようにも思う。私的な感情に任せて詰め寄るのも隙を生みやすい。何より今優先したいのは彼女の前から一刻も早くこの男を消し去ること。
 解放されたアーキンは服を整えながら急ぎ足でロイの脇を通り過ぎる。小さな舌打ちが聞こえたのは気のせいではない。

「どけよ」

 アーキンは最後の最後まで悪態をつき、ドアを塞ぐように立っていたは一歩下がって道をあけた。
 部屋を出た人の背を見送って、に駆け寄り膝を着く。

「大丈夫でしたか」
「ええ……」

 掠れ声で応答するは、心底疲れているようにぐったりとしている。対するは鳴き声にも近い震えた声で言葉を紡ぐ。

「すみません……まさか、お嬢様にこんなことが起こるなんて」
「あなたのせいではないのだから。全て、私の我侭のせいよ……」

 はソファから起き上がり、それをが支える。お互いに手を取り合っている姿は、先程までの部屋の雰囲気とは似合わない微笑ましい光景だ。しかしロイにはその姿が酷く安穏に映り、そして先までの落差に息をついた。自分ととの間に横たわるものは、思い合う関係とは程遠いものと自覚はしていた。しかしの信頼を得ていると言う、目の当たりにした事実に対する嫉妬は疑いようがない。そして自分が何故あんなにも取り乱していたのかと、押し寄せる後悔が冷静でいる事を許さない。

と2人きりにしてくれ」

 思いのほか強くなってしまった語気。それに驚き、の手を撫でることを止めて顔を上げた。その目にたまる涙が彼女の本心だという事も知っている。だが、どうしても今と話さなければならない事が山のようにある、そんな気がした。
 主人の許しを請うためか、果ては部外者を追い出すかと問うためなのか、は主の顔を覗き込む。はそんな侍女に小さな頷きをひとつした。それを見て、は名残惜しそうに手を離し、席を立ち、一礼すると「人払いをしておきますので」と小さく言い残して部屋を出る。リザもそれに続いて廊下へ歩を落とした。
 ドアが閉まると部屋はまた静けさを取り戻す。はいつもの様に軽い口を聞くわけでもなく、ただソファに浅く腰かけるだけで一寸たりとも動くことはない。緊張しているように、ぴんと伸ばされた背筋や乱れてしまった髪が痛々しく、白さを一層増した表情に顔を背けたくなった。しかしこれから自分は、この人と今まで以上に向き合っていかなければならないのは確かでなのである。彼女が何をしてでも過去を手に入れたいと思うのならば、自分もそれに見合うだけの覚悟をもって対応すべきだ。だが、それが出来るほど、今の自分は冷静かと問えばそれは無理に等しい事のように思えた。

「……なぜ、あんな事を」
「分かっているのでしょう? ……くだらない事を聞かないで」

 その言葉だけ聞けば以前と全く変わり無い彼女の強気な態度。しかし目の前にある彼女の体が小さく揺れており、それは以前に会ったときに比べ、その存在を何倍にも弱々しく見せる。と初めてこの家で会ったとき、女性は人間だと言い放った彼女ではあるが、自分は男として、その細い肩を抱きしめたいと思う。ずっと守り抜きたいという思いも、この人には撥ねつけられるものなのだろうか。

「貴女の口から確かめたいと思っただけだ」
「……人を見下ろして話すのは止めてください」

 突拍子も無い彼女の言葉にはっとした。後に考えれば、それが彼女なりの逃げる道だったのかも知れないと思える。その余裕のなさに気付かず、その時はぼんやりとしていた自分を落ち着けるように、長く息を吐いて、彼女の向かいのソファに座った。
 まさかこんな風に再会するとは思わなかった。のどかとまでは行かなくとも、お互いに気まずさなど無いような再会を望んでいた。しかし現実はそうもいかない。なんて酷く哀れのものだろうか。

「アーキン少佐が、軍の人間と知って近づいたのか?」
「…………」

 対面しているにも関わらず、彼女は目をあわせようともしない。伏せられた顔、声も小さかった。

「貴女らしくもない。何故答えてくれないのだ」
「必要があるとは思えないからよ……。貴方には関係が無いことだもの、それ以外に理由は無いわ」
「私も軍の人間だ。貴女が望むのならば、あの男と同じような働きはいくらでも出来る」
「無理ね」

 彼女はその言葉を自信たっぷりに言う。同時に鋭い一瞥を受けて、いつもの彼女のことだとロイは少しの安心を感じた。彼女は淡々と語り始める。

「貴方は優しすぎるもの……私の望む事が私に害だと思えば、全てを曝け出すことはしない……そうでしょう? 私が、貴方が知った私の過去を話してと願っても、情報は全て貴方のふるいに掛けられる。結果伝えられるのは、もしかすると全体の1割かもしれない。そう分かっていながら、どうしてそういう人から話を聞かなければならないの?」
「光栄ですね、私がそんな風に見られていたとは」
「今回の件で貴方にたずねる必要は無いということよ。決して相応しい相手とはいえない」
「しかし取捨選択されない情報にまとまりが無いことも確かでは?」
「私はそれでもいいの。どんなに断片的にだって、繋ぎ合わせればひとつの過去になる。それには避けられている事実がないことも重要よ」

 彼女の言うことは全くその通りで認めざるを得ない。そんなに長い付き合いという訳でもないのに、よくここまで人の行動を予測できるものだと、その点については感心する。しかし配慮なく彼女にありのままを伝えてどうなる? 幸せになるものなど一人としていないのではないか。それに全てを話せば、彼女は満足するのかと言えばそうでは無いだろう。知りたいと願うからには好奇心ばかりではなく、知ることによって達成する、あるいは達成しようとする目的があるはずだ。

「危険を冒してまで、どうしてあの者に頼ろうとする?」
「誰でも良かったのよ、貴方以外ならば」
「軍の人間ならば、正直に誰もが口を開くと思うのか?」
「条件をつければそうでしょう? 現にあのアーキンという方だって、邪魔が入らなければ私を抱く代わりに知っている事は全て話していたはずよ。男は肩書きも身分もそういうところでは変わらない……悲しいことに、ね」

 向けられた瞳に宿る光は悲しみに満ちている。笑う口元はきっと自分の情けなさへの嘲笑。但し、それは思い込みかもしれない。しかし彼女のプライドは今回の件で切り裂かれたはずである。女だという事でしか、得る事ができないものの存在を改めて知って、深く傷ついたはずなのだ。おそらく一生抱えねばならなくなった傷心を思うと、とても心が痛む。
 自分は甘かったのだろうか。彼女の過去へのこだわりがここまでと知っていたら、おそらく対策をとっていただろう。知りえた事を出来るだけ早く彼女に知らせていたかもしれない。もちろんそれも、必要でないところは省いてではあるが。

「あれだけして、一体どこまでお知りになったのです?」
「貴方が続きを話してくれると言うの?」
「貴女の知りえたものによっては考えなくもありませんね」

 しかし彼女は知っているのである。私が全てを話すわけが無いという事を。

「では逆に聞くわ。貴方は何を話してくださるの? それとも、何を対価にすれば話していただけるのかしら」

 その問いから逃げてしまうのも簡単だった。しかしここで話さなければ、私は次に会おうとした時、どんな顔で会えるだろう。これは話す機会なのだと悟った。

「私は貴女に対価など求めません」
「そう」

 の表情に明かりが微かに舞い戻る。悲しげな表情は、希望を見出したためなのか柔らかな表情になる。丁寧に重ねられた手がぴんと張っていた。

「その話に触れる前に、ひとつだけ言っておく事があります」
「どうぞ仰って」
「私は記憶を失う以前の貴女の姿を見ているわけではありません、そして話す内容は人から聞いた事や資料から知れたものだけです」
「つまり信憑性には欠けますが、それでもいいのなら――そういうことね」
「ええ」
「対価は無いのですもの、それくらい構わない」

 手を伸ばしたかと思えば、彼女は髪をといてしまう。幾度か手で梳くと、少し大きく波打つ髪が彼女の肩へと流れた。同時に、その顔から悲しみは消え去った。一瞬にして、彼女は冷たささえ思わせる凛とした色へと変貌する。

「どうぞ」

 身震いしそうな美しさを感じた。きらきらと柔らかな明かりに照らされたルージュの発した言葉、髪をとくだけの一連の動作。女性なら誰しもする事であるのにどうしてここまで感動するのか自分でも不思議でたまらない。
 ドア一枚隔てた者の事など忘れるように、ロイは第一に何を話すのかを考え始めた。はそれをじっと黙って見守るばかりである。


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